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【読書】ネバーギブアップ〜ジョン万次郎から学ぶチャレンジ精神〜

この間、山形県産の美味しい日本酒をいただき、

日本酒ってこんなに美味しいんだと

最近日本酒にハマってしまいました。

 

こんな美味しい日本酒を

産地の山形で飲めたらどれだけ良いか♪

 

今まで日本全国温泉旅行の旅をしたいなというのは常々思っていましたが、

温泉と共に日本全国の地酒も飲んでみたいなと思いました。

 

このように、

日本には素晴らしい場所や文化があるので、

日本全国旅をするのは本当に楽しいだろうなと思います。

 

日本国内の旅行でも大変楽しいですが、

海外旅行はもっと多くの発見やワクワクがあります。

 

日本と海外のどちらかが素晴らしいとかではなく、

言葉も文化も違うものに触れるというのは大きく視野が広がって楽しいものです。

 

今は学校の授業で英語を学んだり、

インターネットの発達で、世界中の情報も入れやすくなっているため、

グローバル化が大変進んでいます。

 

しかし、今から200年ほど前の江戸時代末期、

日本が鎖国真っ只中の時は違っていました。

 

日本は外国との交流を絶ち、

幕府が日本全国を牛耳っていたころ、

海外旅行はおろか、日本中の誰もが英語も何もわからない時代。

 

そんな時代に、

日本人初のアメリカ留学生となった

ジョン・万次郎(中濱万次郎)の生涯を描いた

「ネバーギブアップ〜ジョン万次郎〜」

の本でのジョン・マン(愛称)の生き方がとても感動しましたので、

その感想をまとめてみようと思います。

 

なるべく細かいところは割愛しようとは思いますが、

下記ネタバレを多分に含みますので、

未読の方はお気をつけください。

 

 

【ストーリー】

 

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ネバー・ギブアップ ジョン万次郎 (ロング新書) | 中濱 武彦 |本 | 通販 | Amazon

 

◆初漁で漂流し、アメリカ船に拾われる

 

万次郎は土佐生まれの漁師の子どもでした。

14歳になったころ、「かしき」という漁師見習いとして船に乗り初漁に出ました。

 

その漁で万次郎の乗った船が、

4、5年に一度の「アナゼ」という黒潮の大蛇行に乗ってしまい、

はるか北東の鳥島という無人島に漂流してしまいます。

 

この鳥島という島は伊豆諸島の島であり、

江戸から南に580キロほども南に進んだアホウドリが多く生息する孤島の無人島です。

 

つまり、土佐(高知)から江戸(東京)の真下ほどまで流されてしまったのです。

 

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漂流物語の生まれる島・伊豆鳥島!!かつてはアホウドリの楽園でした。 | 離島・秘境ナビ

 

羅針盤なども開発されていない鎖国中の江戸時代に、

周りに島も何も見えない太平洋の孤島に流れ着く恐怖はとてつもないと思います。

 

さらに、元々2、3日の航海の予定だったため

食料なども3日分ほどしか積んでおらず、

その無人島に着く頃にはすっかり食料は尽きていました。

 

万次郎の乗った船には、

万次郎を含め5人の船員がいましたが、

島に上陸する際に大波に持ち上げられ船が大きな岩礁に激突し、

一人が動けなくなるほどの重傷を負ってしまいます。

 

重傷者を看病する人間を1人残して、

残りの3人で食料と飲み水探しをしてサバイバル生活をすることになりました。

 

ほとんどたいした食料も取れないまま、

5ヶ月ほどもサバイバル生活をしていたのだそうです。

 

5ヶ月もの間、船が全く通らなかったのですが、

たまたまアメリカの捕鯨船がその島に立ち寄った為に救出されました。

 

アメリカの捕鯨船の記録によると、

あと1週間も遅ければ全員餓死するほど

極限の状態だったそうです。

 

 

アメリカの捕鯨船で躍動する万次郎

 

万次郎たちを救出したアメリカの捕鯨船は、

ジョン・ハウランド号」という名の船で、

イリアム・H・ホットフィールド船長と乗組員が34名いました。

 

このホットフィールド船長が大変器の大きい人で、

鎖国中の日本は漂流者の受け入れを全く行っていないことを知っており、

まずは捕鯨船が帰るべきアメリカまで万次郎達を届けてくれようとしていました。

 

万次郎は何とかして感謝の気持ちを伝えたいと思い、

言葉がわからないながら、手の空いている船員を見つけては

身振り手振りで会話を試みました。

 

さらに何かしら力になりたいと

食器洗い、洗濯、看板掃除など、

できることは何でもやりました。

 

それに対して、船員達が皆「サンキュー万次郎」と言い、

土佐にいた時は身分制度により目上の人が感謝を伝えることなどなかった万次郎は、

褒められるのが嬉しくて、より率先して仕事をし、

次第に言葉も覚えていったのだそうです。

 

当時の航海は事故なども多く、

船員全員が力を合わせるシーマンシップという考え方があり、

肌の色や出身や身分は関係なく、

努力が正当に評価される考え方でした。

 

万次郎はその嬉しさから、

・明るく率先して行動

・新しい環境や異文化に積極的に順応

・果敢に新しいことにチャレンジ

という行動を見せ、

一番若かったこともあり、ジョン・ハウランド号のマスコットのように可愛がられるようになりました。

 

そしていつしか万次郎は、

ジョン・ハウランド号から名前を取って、

「ジョン・マン」と呼ばれるようになりました。

 

その様子を暖かく見守っていたのがホットフィールド船長であり、

万次郎の資質を見込んで、アメリカで高等教育を学ばせてくれることになりました。

 

 

◆憧れのアメリカで成長する万次郎

 

アメリカに着いた万次郎は、

フェアヘーブンという土地で、

ホットフィールド船長とその奥さんに養ってもらうことになりました。

 

周りから人種差別を受けるようなこともありましたが、

ホットフィールド船長が万次郎を守ってくれ、

「立派な海の男になれ」と最先端の高等数学、測量学、航海術、世界史などを学ばせてもらい、

万次郎もその期待に応え、高等航海士養成学校を主席で卒業。

 

学校卒業後は、元ジョン・ハウランド号の仲間から捕鯨船のクルーに推薦され、

航海に出るようになりました。

 

万次郎は漂流後のジョン・ハウランド号での経験と、

高等航海士養成学校での学びを生かして、

次の捕鯨船でも十分に活躍し、三等航海士にまで昇格していきました。

 

しかし、太平洋に点在する島々を回るうちに、

各々の島が西洋先進国の植民地になっていることを目の当たりにしました。

 

ホットフィールド船長のもと、

シーマンシップの名の下に皆平等」という精神を学んでいた万次郎は、

列強国の侵略されている国々を見て、

複雑な気持ちになりました。

 

また、アメリカは日本近海でも漁を行っていて、

食料調達や病人の保護などに対して、

どうしても日本の協力が必要になりますが、

当時の日本は頑なに国を閉ざしていました。

 

そんな日本に対して、アメリカのみならず、イギリスやフランス、ロシアまでもが怒り、

万次郎は、知らぬ間に日本が世界から孤立しようとしていることがわかりました。

 

万次郎はさらに植民地となっていた東南アジアの国々の姿も思い出し、

生き別れた実母の住む土佐や日本が心配になりました。

 

この状況を解決するには鎖国を取り止め、

日本が外国に対して心を開く必要がありましたが、

当の幕府からは一向にその気配が見受けられません。

 

日本を救うには開国するしかなく、

事情を知る自分がその役目を果たさなければと万次郎は考えました。

 

しかし、その時フェアヘーブンにいたホットフィールド船長には帰国を報告する機会がなく、

これまでの経緯と今までの感謝を直接伝えられないことが心残りではありましたが、

日本の危機的状況を打破する為に、

万次郎は日本への帰国を決心しました。

 

 

◆命がけの帰国

 

当時の日本は、

漂流した日本人であろうがなんだろうが、

外国船が近づいてくると大砲を放ち、

あらゆる外国船の入港を拒んでいました。

無事日本に到着できても、異文化に染まった万次郎は厳しい処分を受ける可能性もありました。

 

優秀な乗組員が帰国することは好ましくないと思った当時の捕鯨船の船長は、

何度も万次郎への説得を試みるも、万次郎の意思は固く、考えは変わりませんでした。

 

万次郎はお世話になったホットフィールド船長夫妻に直接お礼を伝えることができなかったため、

二人に手紙を残し、それを届けてもらうようにお願いをしました。

 

そして、帰国を決行!

万次郎の作戦は、

幕府の目が届きにくい琉球沖100マイルのポイントから、夜中に小型ボートで密入国するものでした。

 

無事沖縄には到着。

最初の上陸ポイントを沖縄に選んだのは正解で、

沖縄の人は万次郎を暖かく迎え入れてくれ、

万次郎はそこで忘れかけていた日本語を思い出し、協力者を見つけました。

 

その後、万次郎は鹿児島の薩摩に移り、

最大の協力者となる島津斉彬(しまづなりあきら)と出会い、

アメリカで学んだ文明や文化、さらには日本の危機的な状況を余すことなく伝えました。

また、土佐にいる実母に一目会いたいという旨も伝えました。

 

話を聞いた斉彬は、

「もっともな願いだ」と言い、

万次郎が土佐に帰るまでの協力をしてくれました。

 

数々の支えがあり、

漂流してから実に11年ぶりに母親との再会。

 

万次郎の母は、

万次郎が漂流してから毎日墓参りを欠かさなかったと聞きます。

 

初航海で漂流し、

なくなったと思っていた息子が、

立派な青年になって生きて帰ってきた時の母の嬉しさは相当なものに違いありません。

目にいっぱいの涙を浮かべての再会だったそうです。

 

万次郎は国を開国するという使命が残っていたため、

母との時間は3日程度しかなかったそうです。

 

しかし、幕府の勅命で江戸に派遣されるまで、

土佐の「教授館」というところで外国の文化やアメリカについて、

次世代の若者に伝える仕事をしていたそうです。

 

衆生には、後藤象二郎岩崎弥太郎板垣退助などがいました。

 

郷士の子であった坂本龍馬は直接は学べなかったそうですが、

西洋文化に興味を持っていたため、その授業の内容は入手していたそうです。

 

その後、時代はペリーが浦賀に黒船という蒸気船で威嚇をし、

慌てた幕府はアメリカの情報を早急に欲しがり、

万次郎が江戸に呼ばれることになりました。

 

 

◆日本開国と第二の故郷への帰郷

 

幕府に呼ばれた万次郎は

世界情勢とアメリカが日本に求めていることを伝え、開国の一役を担いました。

 

開国後、英語ができて航海のプロである万次郎は、

国内の貿易発展に尽力しました。

 

愛すべきホットフィールド夫妻の元を離れ、

決死の帰国をしてから実に21年の歳月が流れたころ、

普仏戦争の視察団の通訳として、

ニューヨークに向かう機会を得ました。

 

ニューヨークはホットフィールド夫妻の住むフェアヘーブンと距離が近く、

二人に会うことができます。

 

万次郎はニューヨークに着いてから丸二日休みをもらい、

フェアヘーブンへと向かいました。

 

21年ぶりの万次郎の帰郷。

命の恩人であるホットフィールド夫妻も目に涙を浮かべての再会となりました。

 

まさに万次郎にとってこのフェアヘーブンは第二の故郷でした。

 

万次郎はアメリカから日本に帰る時に

アメリカ特有のものをたくさん買い込み、

日本に普及させていきました。

 

さらに日本の航海技術向上に力を入れ、

万次郎の子どもにも受け継がれていきました。

 

このように漂流して餓死寸前となった少年が、

チャレンジ精神や使命感を通して日本開国の立役者となり、

日本と世界を繋ぐまでの人物となりました。

 

 

【感想】

 

とても感動しました!

特に、国も違う万次郎を本当の子どものように愛したホットフィールド夫妻の愛情が好きだなと思いました。

 

日本の母と、アメリカの両親、

どちらの帰郷も年月がかかっているだけに感動です。

 

また、漂流後の無人島での不屈の心、

アメリカ船に拾われた時の万次郎の積極性や仕事の姿勢、

受けた期待や恩に応えようとする心意気は、

今の自分にとても大事なことだなと思いました。

 

また、万次郎がホットフィールド船長に出会ったように、

人との出会いというのは大きく、

親や親戚、学校の先生や部活動の監督。

自分を受け入れてくださる数々の大人達が見守ってくれることによって、

大きく成長させてもらえた実感があります。

 

社会人になってからは、

株式会社RNS社長の向山雄治さんにお会いし、

トップの人のより高い仕事の基準や仕事の姿勢を知りました。

 

また、結果を出されている人ほど、

人が努力する姿勢を見て、

そこを認めて背中押しをしてくださいます。

 

そういう人がいてくれると心強いし、

もっと高いレベルで仕事がしたくなります。

 

実力というのは一朝一夕で変わるものではないので、

自分が頑張りたくなるような応援者が周りにいて、

万次郎のように明るく積極的に目の前の課題に取り組むことが大事なのかなと思いました。